記憶に咲く薔薇 ~消えゆく庭を守る少女たち~

記憶に咲く薔薇 ~消えゆく庭を守る少女たち~

last updateآخر تحديث : 2025-12-21
بواسطة:  佐薙真琴مستمر
لغة: Japanese
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美しいものを愛する少女・御厨胡蝶が偶然見つけた古い洋館の薔薇園。そこは時を忘れたように静かで、何十種類もの薔薇が咲き誇る秘密の楽園だった。 庭を守る老婦人・マリアンヌは、八十年前に愛した人との約束を守り続けていた。戦争で失われた恋人の記憶を、薔薇と共に。 しかし、再開発でこの庭は消えようとしていた。 「本当に美しいものは消えないのよ。それを愛する人がいれば」 マリアンヌの言葉に背中を押され、胡蝶は同級生の紬と共に立ち上がる。写真と刺繍で庭の記憶を残し、署名を集めて保存を訴える。クラスメイト、地域の人々、そして見知らぬ誰かの記憶――様々な愛が集まったとき、小さな奇跡が起きる。

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الفصل الأول

第一章「蝶の庭を探して」

 五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。

 御厨胡蝶みくりやこちょうは通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。

 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。

「胡蝶ちゃん、また止まってる」

 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ゆずきひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。

「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」

「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」

 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。

 二人は桜丘さくらがおか高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。

 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。

 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。

「おはよう、胡蝶さん」

 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山とおやまつむぎだった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。

「おはよう、紬さん」

 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。

 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。

 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。

 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。

 昼休み、ひかりと一緒に購買でパンを買って屋上に向かった。

「ねえ、胡蝶ちゃん。今度の文化祭、何やる?」

「まだ決めてないけど……何か美しいものを作りたいな」

「また抽象的だね」

 ひかりは笑いながらメロンパンを頬張った。

「でも胡蝶ちゃんらしいよ。いつも綺麗なものばかり探してる」

「うん。この世界は美しいもので溢れてるから」

 胡蝶はそう言って、空を見上げた。真っ青な五月の空に、綿菓子のような雲が浮かんでいる。

「でもさ」ひかりが真面目な顔で言った。「胡蝶ちゃん、たまには足元も見た方がいいよ」

「足元?」

「うん。遠くばかり見てると、近くにある大切なものを見落としちゃうから」

 その言葉が、なぜか胡蝶の胸に刺さった。でも、その意味を深く考える前に、チャイムが鳴った。

 放課後、胡蝶はいつもと違う道を通って帰ることにした。

 美術部の活動日ではなかったし、特に用事もない。ただ、何となく新しい景色が見たかった。

 商店街の裏手に続く細い路地を進むと、そこは胡蝶の知らない世界だった。つたに覆われた古い塀が続き、所々に木造の門が見える。昔からの旧家が並ぶ一角のようだった。

 歩いていると、ふと甘い香りが鼻をくすぐった。

 薔薇の香りだ。

 胡蝶は香りの源を探して、塀沿いに歩いた。やがて、錆びついた鉄の門が見えてくる。門の向こうには、信じられないような光景が広がっていた。

 薔薇の庭園だった。

 ピンク、白、赤、黄色――あらゆる色の薔薇が咲き乱れている。アーチ状に組まれた木の枠には、つる薔薇が絡みついて花のトンネルを作っていた。

 胡蝶は思わず門に手をかけた。鉄は冷たく、所々に錆が浮いている。でも、押してみると意外にも簡単に開いた。

 庭園に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。

 外の喧騒が嘘のように消え、薔薇の香りと鳥のさえずりだけが聞こえてくる。風が通り抜けるたび、花びらが揺れて、光を反射する。

 まるで時間が止まったような場所だった。

 胡蝶は恍惚とした表情で庭園の中を歩いた。石畳の小道が薔薇の間を縫うように続いている。所々に古いベンチや噴水の跡があり、かつてここが誰かに愛された場所だったことを物語っていた。

 庭の奥に、白い洋館が見えた。三階建ての優雅な建物で、バルコニーには蔦が絡みつき、窓ガラスには夕陽が反射している。

「誰かいるのかしら」

 胡蝶が呟いたとき、背後から声がした。

「あら、珍しいお客様ね」

 驚いて振り向くと、そこに一人の老婦人が立っていた。

 白髪を優雅にまとめ、淡い紫色のワンピースを着た女性。腰は少し曲がっているけれど、瞳は澄んでいて、まるで少女のように輝いていた。

「ごめんなさい、勝手に入ってしまって……」

 胡蝶は慌てて謝った。

「いいのよ。門は開けておいたんだから」

 老婦人は優しく微笑んだ。

「私はマリアンヌ・ローレンス。この庭の番人のようなものよ」

「私は御厨胡蝶と言います。あの、ここは……?」

「ローズガーデン・ハウスよ。かつて、ある外国人の実業家がこの街に建てた洋館なの。今はもう、誰も住んでいないけれど」

 マリアンヌは庭を見渡しながら言った。

「私は若い頃、ここで庭師として働いていたの。主人が亡くなってからも、薔薇たちの世話を続けているわ」

「素晴らしい庭園ですね」

 胡蝶は心から感動して言った。

「こんなに美しい場所があったなんて、知りませんでした」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」

 マリアンヌの瞳に、一瞬寂しげな光が浮かんだ。

「でも、この庭も長くはないかもしれないの」

「え?」

「この一帯が再開発されることになったのよ。来年には、この洋館も庭園も取り壊されるかもしれない」

 胡蝶の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。

「そんな……こんなに美しい場所なのに」

「美しいものは、いつか必ず消えてしまうの」

 マリアンヌは静かに言った。

「でもね、胡蝶さん。本当に美しいものは消えないのよ」

「消えない?」

「ええ。それを愛する人の心の中で、永遠に咲き続けるの」

 その言葉の意味が、胡蝶にはまだ分からなかった。

 でも、何か大切なことを言われている気がした。

「また来てもいいですか?」

 胡蝶は思わず尋ねた。

「もちろん。いつでも歓迎するわ」

 マリアンヌは優しく微笑んだ。

「薔薇たちも、若い人に愛されると喜ぶものよ」

 その日から、胡蝶は毎日のように薔薇園を訪れるようになった。

 放課後、授業が終わるとすぐに鞄を持って商店街の裏手へ向かう。錆びた鉄の門をくぐると、そこはいつも変わらぬ美しさで迎えてくれた。

 マリアンヌは胡蝶に薔薇の名前を教えてくれた。

 ピエール・ドゥ・ロンサール。淡いピンク色の大輪の薔薇で、まるでドレスのフリルのような花びらを持つ。

 アイスバーグ。真っ白な清楚な花で、夕暮れ時には青白く光るように見える。

 プリンセス・ドゥ・モナコ。白地にピンクの縁取りがある優雅な薔薇。

 それぞれの薔薇に物語があり、それぞれの香りがあった。

「薔薇は記憶の花なのよ」

 ある日、マリアンヌは剪定ばさみを手に言った。

「人は薔薇の香りを嗅ぐと、大切な記憶を思い出すの。初恋の人、亡くなった母親、幸せだった日々……」

「私にも、そんな記憶ができるでしょうか」

 胡蝶は白い薔薇の花びらに触れながら尋ねた。

「もちろん。今、この瞬間が、あなたの大切な記憶になるのよ」

 マリアンヌの言葉は、いつも謎めいていた。でも、その一つ一つが胡蝶の心に小さな種を植えていく。

 ある日の夕暮れ時、胡蝶は庭のベンチに座ってスケッチをしていた。目の前には、夕陽を浴びて黄金色に輝く薔薇のアーチがある。

 何度描いても、この美しさを紙の上に再現できない。でも、描き続けることで、少しずつ薔薇の本質に近づいているような気がした。

「胡蝶さん、絵を描いてるの?」

 声に顔を上げると、意外な人物が立っていた。

 遠山紬だった。

「紬さん? どうしてここに?」

「私も……この庭のことを知ってたの」

 紬は少し恥ずかしそうに言った。

「実は、マリアンヌさんに刺繍を教えてもらってるんです」

「刺繍?」

 胡蝶は驚いた。クラスで一番地味な印象の紬が、刺繍をするなんて想像もしていなかった。

「ええ。マリアンヌさんは若い頃、ヨーロッパで刺繍を学んだそうで……」

 紬はそう言いながら、小さな布の包みを開いた。中には、繊細な刺繍が施されたハンカチが入っていた。

 胡蝶は息を呑んだ。

 白い麻布の上に、銀色と淡いピンクの糸で薔薇が刺繍されている。花びらの一枚一枚が立体的で、まるで本物の薔薇が布の上に咲いているようだった。

「これ……紬さんが作ったの?」

「はい。でも、まだまだです。マリアンヌさんの作品には遠く及ばない」

 紬の頬が少し赤くなった。

「すごい……こんなに綺麗な刺繍、初めて見た」

 胡蝶は心から感動していた。

 遠くの美しいものばかり追いかけていた胡蝶は、すぐ隣にこんな才能を持った人がいることに、今まで全く気づいていなかった。

「紬さん、もっと作品を見せてもらえる?」

「え……いいんですか?」

 紬は驚いたように目を見開いた。きっと、今までそんなことを言われたことがなかったのだろう。

「見たいの。あなたの作る美しいものを」

 胡蝶の言葉に、紬の瞳がゆっくりと輝き始めた。

 それは、薔薇園で二人の少女の友情が芽生えた瞬間だった。

 夕陽が庭園をオレンジ色に染めていく。遠くでマリアンヌが水やりをする音が聞こえる。薔薇の香りが風に乗って運ばれてきた。

 胡蝶は思った。

 もしかしたら、本当に美しいものは、遠くにあるのではなく、こうして手の届くところにあるのかもしれない。

 でも、その時の胡蝶は、まだその意味の全てを理解していなかった。

 これから始まる物語の、ほんの序章に過ぎなかったのだから。

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第一章「蝶の庭を探して」
 五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。 御厨胡蝶は通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。「胡蝶ちゃん、また止まってる」 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。 二人は桜丘高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。「おはよう、胡蝶さん」 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山紬だった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。「おはよう、紬さん」 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。 昼休み、ひかり
last updateآخر تحديث : 2025-12-16
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第二章「時を忘れた花々」
 翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。 いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。 門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。「おはようございます、マリアンヌさん」「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」 マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」 二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。 朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」 胡蝶は水やりをしながら尋ねた。「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」 マリアンヌは遠い目をして言った。「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」「ご主人の……?」「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」 マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」 その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」 マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」「素敵ですね」 胡蝶は心から感動して言った。「でも、幸せは長くは続かなかったの」 マリアンヌの声が少し震えた。「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」「マリアンヌさん……」「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯
last updateآخر تحديث : 2025-12-16
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第三章「銀糸の魔法」
 月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。「おはよう、紬さん」 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」「薔薇園のこと?」「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」「すごい……もう調べたんだ」「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」 昼休み、二人は図書室に行った。 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。「見て、これ」 紬が一冊の本を開いた。 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」 紬は興奮した様子で説明した。「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」「どうして?」「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」 紬は自嘲的に笑った。「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」「そんなことない」 胡蝶は強く言った。「紬さんの刺繍は、本当に美しい。
last updateآخر تحديث : 2025-12-16
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第四章「消えゆく楽園」
 七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。 花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。 胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。「季節によって、庭の表情が全く違うの」 胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。「この変化も、記憶の一部として残したい」 紬の刺繍も、順調に進んでいた。 すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。「まだ足りないの」 ある日、紬は悩ましげに言った。「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」「大作?」「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」 それは途方もない計画だった。 一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。「時間が足りないわ」 マリアンヌが心配そうに言った。「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」「でも、やりたいんです」 紬の目には、強い決意の光があった。「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」 マリアンヌは深く頷いた。「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」 それから、紬の生活は刺繍一色になった。 朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。「紬さん、大丈夫?」 ひかりが心配そうに声をかけてきた。「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」「大丈夫」 紬は笑顔を作った。「やらなきゃいけないことがあ
last updateآخر تحديث : 2025-12-17
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第五章「針と糸で紡ぐ未来」
 十月に入り、空気が秋めいてくると、薔薇園にも変化が訪れた。 夏の深い緑は、少しずつ黄色や赤みを帯び始める。実をつけた薔薇もあり、その姿もまた美しかった。「秋の薔薇は、春とは違う魅力があるのよ」 マリアンヌが言った。「花は小さくなるけれど、色が濃くなる。香りも、より深みを増すの」 胡蝶はカメラを構えて、秋の薔薇を撮影した。深紅の花びらに、朝露が光っている。 文化祭は二週間後に迫っていた。 紬の大作――庭園全体を描いた刺繍は、ようやく全体の姿が見えてきた。 縦一メートル、横一メートル五十センチの大きな布に、薔薇園の風景が刺繍されている。手前には様々な色の薔薇が咲き、奥には白い洋館が佇む。空は淡い青で、雲が浮かんでいる。「すごい……」 それを見た高村先生が感嘆の声を上げた。「これは、もう芸術作品のレベルよ。プロの刺繍作家でも、ここまでのものを作るのは難しい」「でも、まだ完成してないんです」 紬は疲れた顔で言った。「細部が詰め切れていない。もっと、もっと……」「紬さん」 胡蝶が紬の手を取った。「もう十分だよ。これ以上無理したら、体を壊しちゃう」 実際、紬の体調は限界に近かった。睡眠不足と過労で、時々めまいを起こすほどだった。「でも……」「完璧を目指さなくてもいいの」 マリアンヌが優しく言った。「芸術は、完成することよりも、心を込めることの方が大切よ。あなたの作品には、もう十分魂が宿っているわ」 紬の目に涙が浮かんだ。「本当に……これでいいんでしょうか」「ええ」 マリアンヌは紬を抱きしめた。「あなたは素晴らしい仕事をした。誇りに思っていいのよ」 その温もりに、紬はようやく肩の力を抜いた。 一方、署名活動
last updateآخر تحديث : 2025-12-18
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幕間「冬の記憶」
 十一月の終わり、薔薇園に最初の霜が降りた朝のことだった。 マリアンヌは一人、庭を歩いていた。白く凍った草の上を、慎重に足を進める。薔薇の葉も霜で縁取られて、銀色に輝いていた。 この季節になると、いつも思い出すことがある。 八十年前の冬。アンリが出征する日のことを。 あれは一九四三年の十二月だった。 戦争が激しさを増し、多くの若者が戦地へ送られていた時代。アンリもその一人として、召集令状を受け取った。「マリアンヌ」 出発の前日、アンリは彼女をこの庭に呼んだ。 雪が降り始めていた。薔薇たちは冬の眠りについていて、花は一つも咲いていなかった。でも、アンリは庭の中央にある一本の薔薇の前に立った。「これは、パパ・メイアンという薔薇だ。まだ新しい品種でね、フランスから取り寄せたんだ」 アンリの声は穏やかだったが、どこか緊張していた。「春になれば、深紅の花を咲かせる。まるで情熱の炎のような、美しい薔薇だよ」「なぜ、今その話を……?」 マリアンヌは尋ねた。心の奥で、もう答えが分かっていたけれど。「君への贈り物だよ」 アンリは彼女の手を取った。「僕がいなくても、この薔薇が毎年咲く。その度に、僕を思い出してほしい」「アンリ……」「約束してくれ、マリアンヌ。この庭を守ると。薔薇たちを愛し続けると」 マリアンヌは涙をこらえて頷いた。「約束するわ。あなたが帰ってくるまで、必ず」 その夜、アンリは最後の演奏会を開いた。 洋館のサロンには、親戚や友人たちが集まった。でも、アンリの目は、ずっとマリアンヌを見ていた。 彼が選んだ曲は、ショパンの『別れの曲』だった。 ピアノの音色が、サロンに響き渡る。悲しくて、美しくて、胸が締め付けられるような旋律。 マリアンヌは、必死に涙を堪えた。 でも、曲の最後の和音が消えた時、もう堪えきれな
last updateآخر تحديث : 2025-12-19
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エピローグ「五年後の春」
 桜が満開の四月、御厨胡蝶は久しぶりに故郷の街を訪れた。 東京の大学で写真を学んで三年。春休みを利用しての帰省だった。 駅を降りると、懐かしい空気が胡蝶を包んだ。変わらない商店街、変わらない街並み。でも、どこか新しい活気も感じられた。 駅前には、大きな看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム 春の特別展開催中」 胡蝶は微笑んだ。 あれから五年。薔薇園は、今や街の誇りとなっていた。 バス停に向かう途中、ふと目に入った本屋のウィンドウに、一冊の本が飾られていた。「刺繍で綴る庭園の記憶」――著者:遠山紬 胡蝶は思わず立ち止まった。 紬の初めての作品集だった。 本を手に取ると、表紙には薔薇園の刺繍が使われていた。あの時、二人で作り上げた記憶の庭園の写真が、美しい装丁になっている。 ページをめくると、紬の五年間の作品が並んでいた。 薔薇園の四季。消えゆく古民家。忘れられた路地裏の風景。 全てが、愛情を込めて刺繍されていた。「すみません、これください」 胡蝶はレジに向かった。 書店を出て、胡蝶はそのまま薔薇園へ向かった。 懐かしい路地を抜けると、あの錆びた鉄の門が見えてくる。 でも、今は門の横に立派な看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」 開館時間:9:00~17:00 入場料:500円 胡蝶はチケットを買って、門をくぐった。 一歩足を踏み入れた瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。 五年前と、何も変わっていなかった。 いや、もっと美しくなっていた。 薔薇たちは丁寧に手入れされ、小道は整備され、所々にベンチや案内板が設置されている。でも、庭の本質は失われていなかった。 あの時の静謐さ、優しさ、温もり――全てがそこにあった。「胡蝶さん!」 声に振り向くと、紬が走ってきた。
last updateآخر تحديث : 2025-12-21
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