記憶に咲く薔薇 ~消えゆく庭を守る少女たち~

記憶に咲く薔薇 ~消えゆく庭を守る少女たち~

last updateLast Updated : 2025-12-21
By:  佐薙真琴Ongoing
Language: Japanese
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美しいものを愛する少女・御厨胡蝶が偶然見つけた古い洋館の薔薇園。そこは時を忘れたように静かで、何十種類もの薔薇が咲き誇る秘密の楽園だった。 庭を守る老婦人・マリアンヌは、八十年前に愛した人との約束を守り続けていた。戦争で失われた恋人の記憶を、薔薇と共に。 しかし、再開発でこの庭は消えようとしていた。 「本当に美しいものは消えないのよ。それを愛する人がいれば」 マリアンヌの言葉に背中を押され、胡蝶は同級生の紬と共に立ち上がる。写真と刺繍で庭の記憶を残し、署名を集めて保存を訴える。クラスメイト、地域の人々、そして見知らぬ誰かの記憶――様々な愛が集まったとき、小さな奇跡が起きる。

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Chapter 1

第一章「蝶の庭を探して」

 五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。

 御厨胡蝶みくりやこちょうは通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。

 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。

「胡蝶ちゃん、また止まってる」

 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ゆずきひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。

「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」

「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」

 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。

 二人は桜丘さくらがおか高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。

 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。

 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。

「おはよう、胡蝶さん」

 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山とおやまつむぎだった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。

「おはよう、紬さん」

 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。

 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。

 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。

 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。

 昼休み、ひかりと一緒に購買でパンを買って屋上に向かった。

「ねえ、胡蝶ちゃん。今度の文化祭、何やる?」

「まだ決めてないけど……何か美しいものを作りたいな」

「また抽象的だね」

 ひかりは笑いながらメロンパンを頬張った。

「でも胡蝶ちゃんらしいよ。いつも綺麗なものばかり探してる」

「うん。この世界は美しいもので溢れてるから」

 胡蝶はそう言って、空を見上げた。真っ青な五月の空に、綿菓子のような雲が浮かんでいる。

「でもさ」ひかりが真面目な顔で言った。「胡蝶ちゃん、たまには足元も見た方がいいよ」

「足元?」

「うん。遠くばかり見てると、近くにある大切なものを見落としちゃうから」

 その言葉が、なぜか胡蝶の胸に刺さった。でも、その意味を深く考える前に、チャイムが鳴った。

 放課後、胡蝶はいつもと違う道を通って帰ることにした。

 美術部の活動日ではなかったし、特に用事もない。ただ、何となく新しい景色が見たかった。

 商店街の裏手に続く細い路地を進むと、そこは胡蝶の知らない世界だった。つたに覆われた古い塀が続き、所々に木造の門が見える。昔からの旧家が並ぶ一角のようだった。

 歩いていると、ふと甘い香りが鼻をくすぐった。

 薔薇の香りだ。

 胡蝶は香りの源を探して、塀沿いに歩いた。やがて、錆びついた鉄の門が見えてくる。門の向こうには、信じられないような光景が広がっていた。

 薔薇の庭園だった。

 ピンク、白、赤、黄色――あらゆる色の薔薇が咲き乱れている。アーチ状に組まれた木の枠には、つる薔薇が絡みついて花のトンネルを作っていた。

 胡蝶は思わず門に手をかけた。鉄は冷たく、所々に錆が浮いている。でも、押してみると意外にも簡単に開いた。

 庭園に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。

 外の喧騒が嘘のように消え、薔薇の香りと鳥のさえずりだけが聞こえてくる。風が通り抜けるたび、花びらが揺れて、光を反射する。

 まるで時間が止まったような場所だった。

 胡蝶は恍惚とした表情で庭園の中を歩いた。石畳の小道が薔薇の間を縫うように続いている。所々に古いベンチや噴水の跡があり、かつてここが誰かに愛された場所だったことを物語っていた。

 庭の奥に、白い洋館が見えた。三階建ての優雅な建物で、バルコニーには蔦が絡みつき、窓ガラスには夕陽が反射している。

「誰かいるのかしら」

 胡蝶が呟いたとき、背後から声がした。

「あら、珍しいお客様ね」

 驚いて振り向くと、そこに一人の老婦人が立っていた。

 白髪を優雅にまとめ、淡い紫色のワンピースを着た女性。腰は少し曲がっているけれど、瞳は澄んでいて、まるで少女のように輝いていた。

「ごめんなさい、勝手に入ってしまって……」

 胡蝶は慌てて謝った。

「いいのよ。門は開けておいたんだから」

 老婦人は優しく微笑んだ。

「私はマリアンヌ・ローレンス。この庭の番人のようなものよ」

「私は御厨胡蝶と言います。あの、ここは……?」

「ローズガーデン・ハウスよ。かつて、ある外国人の実業家がこの街に建てた洋館なの。今はもう、誰も住んでいないけれど」

 マリアンヌは庭を見渡しながら言った。

「私は若い頃、ここで庭師として働いていたの。主人が亡くなってからも、薔薇たちの世話を続けているわ」

「素晴らしい庭園ですね」

 胡蝶は心から感動して言った。

「こんなに美しい場所があったなんて、知りませんでした」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」

 マリアンヌの瞳に、一瞬寂しげな光が浮かんだ。

「でも、この庭も長くはないかもしれないの」

「え?」

「この一帯が再開発されることになったのよ。来年には、この洋館も庭園も取り壊されるかもしれない」

 胡蝶の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。

「そんな……こんなに美しい場所なのに」

「美しいものは、いつか必ず消えてしまうの」

 マリアンヌは静かに言った。

「でもね、胡蝶さん。本当に美しいものは消えないのよ」

「消えない?」

「ええ。それを愛する人の心の中で、永遠に咲き続けるの」

 その言葉の意味が、胡蝶にはまだ分からなかった。

 でも、何か大切なことを言われている気がした。

「また来てもいいですか?」

 胡蝶は思わず尋ねた。

「もちろん。いつでも歓迎するわ」

 マリアンヌは優しく微笑んだ。

「薔薇たちも、若い人に愛されると喜ぶものよ」

 その日から、胡蝶は毎日のように薔薇園を訪れるようになった。

 放課後、授業が終わるとすぐに鞄を持って商店街の裏手へ向かう。錆びた鉄の門をくぐると、そこはいつも変わらぬ美しさで迎えてくれた。

 マリアンヌは胡蝶に薔薇の名前を教えてくれた。

 ピエール・ドゥ・ロンサール。淡いピンク色の大輪の薔薇で、まるでドレスのフリルのような花びらを持つ。

 アイスバーグ。真っ白な清楚な花で、夕暮れ時には青白く光るように見える。

 プリンセス・ドゥ・モナコ。白地にピンクの縁取りがある優雅な薔薇。

 それぞれの薔薇に物語があり、それぞれの香りがあった。

「薔薇は記憶の花なのよ」

 ある日、マリアンヌは剪定ばさみを手に言った。

「人は薔薇の香りを嗅ぐと、大切な記憶を思い出すの。初恋の人、亡くなった母親、幸せだった日々……」

「私にも、そんな記憶ができるでしょうか」

 胡蝶は白い薔薇の花びらに触れながら尋ねた。

「もちろん。今、この瞬間が、あなたの大切な記憶になるのよ」

 マリアンヌの言葉は、いつも謎めいていた。でも、その一つ一つが胡蝶の心に小さな種を植えていく。

 ある日の夕暮れ時、胡蝶は庭のベンチに座ってスケッチをしていた。目の前には、夕陽を浴びて黄金色に輝く薔薇のアーチがある。

 何度描いても、この美しさを紙の上に再現できない。でも、描き続けることで、少しずつ薔薇の本質に近づいているような気がした。

「胡蝶さん、絵を描いてるの?」

 声に顔を上げると、意外な人物が立っていた。

 遠山紬だった。

「紬さん? どうしてここに?」

「私も……この庭のことを知ってたの」

 紬は少し恥ずかしそうに言った。

「実は、マリアンヌさんに刺繍を教えてもらってるんです」

「刺繍?」

 胡蝶は驚いた。クラスで一番地味な印象の紬が、刺繍をするなんて想像もしていなかった。

「ええ。マリアンヌさんは若い頃、ヨーロッパで刺繍を学んだそうで……」

 紬はそう言いながら、小さな布の包みを開いた。中には、繊細な刺繍が施されたハンカチが入っていた。

 胡蝶は息を呑んだ。

 白い麻布の上に、銀色と淡いピンクの糸で薔薇が刺繍されている。花びらの一枚一枚が立体的で、まるで本物の薔薇が布の上に咲いているようだった。

「これ……紬さんが作ったの?」

「はい。でも、まだまだです。マリアンヌさんの作品には遠く及ばない」

 紬の頬が少し赤くなった。

「すごい……こんなに綺麗な刺繍、初めて見た」

 胡蝶は心から感動していた。

 遠くの美しいものばかり追いかけていた胡蝶は、すぐ隣にこんな才能を持った人がいることに、今まで全く気づいていなかった。

「紬さん、もっと作品を見せてもらえる?」

「え……いいんですか?」

 紬は驚いたように目を見開いた。きっと、今までそんなことを言われたことがなかったのだろう。

「見たいの。あなたの作る美しいものを」

 胡蝶の言葉に、紬の瞳がゆっくりと輝き始めた。

 それは、薔薇園で二人の少女の友情が芽生えた瞬間だった。

 夕陽が庭園をオレンジ色に染めていく。遠くでマリアンヌが水やりをする音が聞こえる。薔薇の香りが風に乗って運ばれてきた。

 胡蝶は思った。

 もしかしたら、本当に美しいものは、遠くにあるのではなく、こうして手の届くところにあるのかもしれない。

 でも、その時の胡蝶は、まだその意味の全てを理解していなかった。

 これから始まる物語の、ほんの序章に過ぎなかったのだから。

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