LOGIN美しいものを愛する少女・御厨胡蝶が偶然見つけた古い洋館の薔薇園。そこは時を忘れたように静かで、何十種類もの薔薇が咲き誇る秘密の楽園だった。 庭を守る老婦人・マリアンヌは、八十年前に愛した人との約束を守り続けていた。戦争で失われた恋人の記憶を、薔薇と共に。 しかし、再開発でこの庭は消えようとしていた。 「本当に美しいものは消えないのよ。それを愛する人がいれば」 マリアンヌの言葉に背中を押され、胡蝶は同級生の紬と共に立ち上がる。写真と刺繍で庭の記憶を残し、署名を集めて保存を訴える。クラスメイト、地域の人々、そして見知らぬ誰かの記憶――様々な愛が集まったとき、小さな奇跡が起きる。
View More五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。
美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。
「胡蝶ちゃん、また止まってる」
親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――
「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」
「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」
ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。
二人は
教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。
美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。
「おはよう、胡蝶さん」
声をかけてきたのは、クラスメイトの
「おはよう、紬さん」
胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。
実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。
午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。
パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。
昼休み、ひかりと一緒に購買でパンを買って屋上に向かった。
「ねえ、胡蝶ちゃん。今度の文化祭、何やる?」
「まだ決めてないけど……何か美しいものを作りたいな」
「また抽象的だね」
ひかりは笑いながらメロンパンを頬張った。
「でも胡蝶ちゃんらしいよ。いつも綺麗なものばかり探してる」
「うん。この世界は美しいもので溢れてるから」
胡蝶はそう言って、空を見上げた。真っ青な五月の空に、綿菓子のような雲が浮かんでいる。
「でもさ」ひかりが真面目な顔で言った。「胡蝶ちゃん、たまには足元も見た方がいいよ」
「足元?」
「うん。遠くばかり見てると、近くにある大切なものを見落としちゃうから」
その言葉が、なぜか胡蝶の胸に刺さった。でも、その意味を深く考える前に、チャイムが鳴った。
放課後、胡蝶はいつもと違う道を通って帰ることにした。
美術部の活動日ではなかったし、特に用事もない。ただ、何となく新しい景色が見たかった。
商店街の裏手に続く細い路地を進むと、そこは胡蝶の知らない世界だった。
歩いていると、ふと甘い香りが鼻をくすぐった。
薔薇の香りだ。
胡蝶は香りの源を探して、塀沿いに歩いた。やがて、錆びついた鉄の門が見えてくる。門の向こうには、信じられないような光景が広がっていた。
薔薇の庭園だった。
ピンク、白、赤、黄色――あらゆる色の薔薇が咲き乱れている。アーチ状に組まれた木の枠には、つる薔薇が絡みついて花のトンネルを作っていた。
胡蝶は思わず門に手をかけた。鉄は冷たく、所々に錆が浮いている。でも、押してみると意外にも簡単に開いた。
庭園に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
外の喧騒が嘘のように消え、薔薇の香りと鳥のさえずりだけが聞こえてくる。風が通り抜けるたび、花びらが揺れて、光を反射する。
まるで時間が止まったような場所だった。
胡蝶は恍惚とした表情で庭園の中を歩いた。石畳の小道が薔薇の間を縫うように続いている。所々に古いベンチや噴水の跡があり、かつてここが誰かに愛された場所だったことを物語っていた。
庭の奥に、白い洋館が見えた。三階建ての優雅な建物で、バルコニーには蔦が絡みつき、窓ガラスには夕陽が反射している。
「誰かいるのかしら」
胡蝶が呟いたとき、背後から声がした。
「あら、珍しいお客様ね」
驚いて振り向くと、そこに一人の老婦人が立っていた。
白髪を優雅にまとめ、淡い紫色のワンピースを着た女性。腰は少し曲がっているけれど、瞳は澄んでいて、まるで少女のように輝いていた。
「ごめんなさい、勝手に入ってしまって……」
胡蝶は慌てて謝った。
「いいのよ。門は開けておいたんだから」
老婦人は優しく微笑んだ。
「私はマリアンヌ・ローレンス。この庭の番人のようなものよ」
「私は御厨胡蝶と言います。あの、ここは……?」
「ローズガーデン・ハウスよ。かつて、ある外国人の実業家がこの街に建てた洋館なの。今はもう、誰も住んでいないけれど」
マリアンヌは庭を見渡しながら言った。
「私は若い頃、ここで庭師として働いていたの。主人が亡くなってからも、薔薇たちの世話を続けているわ」
「素晴らしい庭園ですね」
胡蝶は心から感動して言った。
「こんなに美しい場所があったなんて、知りませんでした」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
マリアンヌの瞳に、一瞬寂しげな光が浮かんだ。
「でも、この庭も長くはないかもしれないの」
「え?」
「この一帯が再開発されることになったのよ。来年には、この洋館も庭園も取り壊されるかもしれない」
胡蝶の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
「そんな……こんなに美しい場所なのに」
「美しいものは、いつか必ず消えてしまうの」
マリアンヌは静かに言った。
「でもね、胡蝶さん。本当に美しいものは消えないのよ」
「消えない?」
「ええ。それを愛する人の心の中で、永遠に咲き続けるの」
その言葉の意味が、胡蝶にはまだ分からなかった。
でも、何か大切なことを言われている気がした。
「また来てもいいですか?」
胡蝶は思わず尋ねた。
「もちろん。いつでも歓迎するわ」
マリアンヌは優しく微笑んだ。
「薔薇たちも、若い人に愛されると喜ぶものよ」
その日から、胡蝶は毎日のように薔薇園を訪れるようになった。
放課後、授業が終わるとすぐに鞄を持って商店街の裏手へ向かう。錆びた鉄の門をくぐると、そこはいつも変わらぬ美しさで迎えてくれた。
マリアンヌは胡蝶に薔薇の名前を教えてくれた。
ピエール・ドゥ・ロンサール。淡いピンク色の大輪の薔薇で、まるでドレスのフリルのような花びらを持つ。
アイスバーグ。真っ白な清楚な花で、夕暮れ時には青白く光るように見える。
プリンセス・ドゥ・モナコ。白地にピンクの縁取りがある優雅な薔薇。
それぞれの薔薇に物語があり、それぞれの香りがあった。
「薔薇は記憶の花なのよ」
ある日、マリアンヌは剪定ばさみを手に言った。
「人は薔薇の香りを嗅ぐと、大切な記憶を思い出すの。初恋の人、亡くなった母親、幸せだった日々……」
「私にも、そんな記憶ができるでしょうか」
胡蝶は白い薔薇の花びらに触れながら尋ねた。
「もちろん。今、この瞬間が、あなたの大切な記憶になるのよ」
マリアンヌの言葉は、いつも謎めいていた。でも、その一つ一つが胡蝶の心に小さな種を植えていく。
ある日の夕暮れ時、胡蝶は庭のベンチに座ってスケッチをしていた。目の前には、夕陽を浴びて黄金色に輝く薔薇のアーチがある。
何度描いても、この美しさを紙の上に再現できない。でも、描き続けることで、少しずつ薔薇の本質に近づいているような気がした。
「胡蝶さん、絵を描いてるの?」
声に顔を上げると、意外な人物が立っていた。
遠山紬だった。
「紬さん? どうしてここに?」
「私も……この庭のことを知ってたの」
紬は少し恥ずかしそうに言った。
「実は、マリアンヌさんに刺繍を教えてもらってるんです」
「刺繍?」
胡蝶は驚いた。クラスで一番地味な印象の紬が、刺繍をするなんて想像もしていなかった。
「ええ。マリアンヌさんは若い頃、ヨーロッパで刺繍を学んだそうで……」
紬はそう言いながら、小さな布の包みを開いた。中には、繊細な刺繍が施されたハンカチが入っていた。
胡蝶は息を呑んだ。
白い麻布の上に、銀色と淡いピンクの糸で薔薇が刺繍されている。花びらの一枚一枚が立体的で、まるで本物の薔薇が布の上に咲いているようだった。
「これ……紬さんが作ったの?」
「はい。でも、まだまだです。マリアンヌさんの作品には遠く及ばない」
紬の頬が少し赤くなった。
「すごい……こんなに綺麗な刺繍、初めて見た」
胡蝶は心から感動していた。
遠くの美しいものばかり追いかけていた胡蝶は、すぐ隣にこんな才能を持った人がいることに、今まで全く気づいていなかった。
「紬さん、もっと作品を見せてもらえる?」
「え……いいんですか?」
紬は驚いたように目を見開いた。きっと、今までそんなことを言われたことがなかったのだろう。
「見たいの。あなたの作る美しいものを」
胡蝶の言葉に、紬の瞳がゆっくりと輝き始めた。
それは、薔薇園で二人の少女の友情が芽生えた瞬間だった。
夕陽が庭園をオレンジ色に染めていく。遠くでマリアンヌが水やりをする音が聞こえる。薔薇の香りが風に乗って運ばれてきた。
胡蝶は思った。
もしかしたら、本当に美しいものは、遠くにあるのではなく、こうして手の届くところにあるのかもしれない。
でも、その時の胡蝶は、まだその意味の全てを理解していなかった。
これから始まる物語の、ほんの序章に過ぎなかったのだから。
桜が満開の四月、御厨胡蝶は久しぶりに故郷の街を訪れた。 東京の大学で写真を学んで三年。春休みを利用しての帰省だった。 駅を降りると、懐かしい空気が胡蝶を包んだ。変わらない商店街、変わらない街並み。でも、どこか新しい活気も感じられた。 駅前には、大きな看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム 春の特別展開催中」 胡蝶は微笑んだ。 あれから五年。薔薇園は、今や街の誇りとなっていた。 バス停に向かう途中、ふと目に入った本屋のウィンドウに、一冊の本が飾られていた。「刺繍で綴る庭園の記憶」――著者:遠山紬 胡蝶は思わず立ち止まった。 紬の初めての作品集だった。 本を手に取ると、表紙には薔薇園の刺繍が使われていた。あの時、二人で作り上げた記憶の庭園の写真が、美しい装丁になっている。 ページをめくると、紬の五年間の作品が並んでいた。 薔薇園の四季。消えゆく古民家。忘れられた路地裏の風景。 全てが、愛情を込めて刺繍されていた。「すみません、これください」 胡蝶はレジに向かった。 書店を出て、胡蝶はそのまま薔薇園へ向かった。 懐かしい路地を抜けると、あの錆びた鉄の門が見えてくる。 でも、今は門の横に立派な看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」 開館時間:9:00~17:00 入場料:500円 胡蝶はチケットを買って、門をくぐった。 一歩足を踏み入れた瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。 五年前と、何も変わっていなかった。 いや、もっと美しくなっていた。 薔薇たちは丁寧に手入れされ、小道は整備され、所々にベンチや案内板が設置されている。でも、庭の本質は失われていなかった。 あの時の静謐さ、優しさ、温もり――全てがそこにあった。「胡蝶さん!」 声に振り向くと、紬が走ってきた。
十二月が訪れた。 薔薇園の木々は葉を落とし、冬の眠りについていた。花はほとんど咲いていないけれど、その静謐な美しさもまた格別だった。 保存が決定した後、様々な動きがあった。 市は「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」という名称で、この庭園を文化施設として整備することを決定した。マリアンヌは名誉顧問として、引き続き庭の管理に携わることになった。 そして、地域のボランティア団体が結成され、庭の維持管理を手伝うことになった。多くの市民が手を挙げてくれた。「みんな、この庭を愛してくれているのね」 マリアンヌは感慨深げに言った。 胡蝶の父親の転勤は、結局延期になった。
十一月の終わり、薔薇園に最初の霜が降りた朝のことだった。 マリアンヌは一人、庭を歩いていた。白く凍った草の上を、慎重に足を進める。薔薇の葉も霜で縁取られて、銀色に輝いていた。 この季節になると、いつも思い出すことがある。 八十年前の冬。アンリが出征する日のことを。 あれは一九四三年の十二月だった。 戦争が激しさを増し、多くの若者が戦地へ送られていた時代。アンリもその一人として、召集令状を受け取った。「マリアンヌ」 出発の前日、アンリは彼女をこの庭に呼んだ。 雪が降り始めていた。薔薇たちは冬の眠りについていて、花は一つも咲いていなかった。でも、アンリは庭の中央にある一本の薔薇の前に立った。「これは、パパ・メイアンという薔薇だ。まだ新しい品種でね、フランスから取り寄せたんだ」 アンリの声は穏やかだったが、どこか緊張していた。「春になれば、深紅の花を咲かせる。まるで情熱の炎のような、美しい薔薇だよ」「なぜ、今その話を……?」 マリアンヌは尋ねた。心の奥で、もう答えが分かっていたけれど。「君への贈り物だよ」 アンリは彼女の手を取った。「僕がいなくても、この薔薇が毎年咲く。その度に、僕を思い出してほしい」「アンリ……」「約束してくれ、マリアンヌ。この庭を守ると。薔薇たちを愛し続けると」 マリアンヌは涙をこらえて頷いた。「約束するわ。あなたが帰ってくるまで、必ず」 その夜、アンリは最後の演奏会を開いた。 洋館のサロンには、親戚や友人たちが集まった。でも、アンリの目は、ずっとマリアンヌを見ていた。 彼が選んだ曲は、ショパンの『別れの曲』だった。 ピアノの音色が、サロンに響き渡る。悲しくて、美しくて、胸が締め付けられるような旋律。 マリアンヌは、必死に涙を堪えた。 でも、曲の最後の和音が消えた時、もう堪えきれな
十月に入り、空気が秋めいてくると、薔薇園にも変化が訪れた。 夏の深い緑は、少しずつ黄色や赤みを帯び始める。実をつけた薔薇もあり、その姿もまた美しかった。「秋の薔薇は、春とは違う魅力があるのよ」 マリアンヌが言った。「花は小さくなるけれど、色が濃くなる。香りも、より深みを増すの」 胡蝶はカメラを構えて、秋の薔薇を撮影した。深紅の花びらに、朝露が光っている。 文化祭は二週間後に迫っていた。 紬の大作――庭園全体を描いた刺繍は、ようやく全体の姿が見えてきた。 縦一メートル、横一メートル五十センチの大きな布に、薔薇園の風景が刺繍されている。手前には様々な色の薔薇が咲き、奥には白い洋館が佇む。空は淡い青で、雲が浮かんでいる。「すごい……」 それを見た高村先生が感嘆の声を上げた。「これは、もう芸術作品のレベルよ。プロの刺繍作家でも、ここまでのものを作るのは難しい」「でも、まだ完成してないんです」 紬は疲れた顔で言った。「細部が詰め切れていない。もっと、もっと……」「紬さん」 胡蝶が紬の手を取った。「もう十分だよ。これ以上無理したら、体を壊しちゃう」 実際、紬の体調は限界に近かった。睡眠不足と過労で、時々めまいを起こすほどだった。「でも……」「完璧を目指さなくてもいいの」 マリアンヌが優しく言った。「芸術は、完成することよりも、心を込めることの方が大切よ。あなたの作品には、もう十分魂が宿っているわ」 紬の目に涙が浮かんだ。「本当に……これでいいんでしょうか」「ええ」 マリアンヌは紬を抱きしめた。「あなたは素晴らしい仕事をした。誇りに思っていいのよ」 その温もりに、紬はようやく肩の力を抜いた。 一方、署名活動